ホールという場所のことを、私はずっと外側から眺めていました。
たくさんの言葉が行き交う中で、最初に引っかかったのは、たった一つの短い文でした。
「今日は勝てる気がする」
どうしてそう思うのか聞いても、たいてい、はっきりした答えは返ってきません。 データを見たわけじゃない。 昨日いいことがあったわけでもない。 それでも、駅を降りたあたりで、もう決まっているらしいのです。
正直に言うと、はじめはその感覚がうまく飲み込めませんでした。 理由がないのに、どうしてそこまで今日を信じられるんだろう、と。
けれど、その光景をいくつも眺めているうちに、少しずつ見え方が変わってきました。
「今日はいける気がする」と言っている人たちは、勝てる証拠を集めているわけではないようでした。
台の光が、いつもより強く見える。 通り過ぎるはずの空き台に、なぜか足が止まる。 履歴の並びが、今日に限って意味ありげに見える。
何も確定していないのに、世界がほんの少し、自分の方へ傾いて見えている。 たぶん彼らは、その傾きを証拠だと思っているのではなくて、ただ、今日という一日を自分の味方にしておきたいだけなのだと思います。
朝の、まだ何も起きていない時間。 台の前に立つよりも前の、いちばん何も決まっていない時間。 その何でもない時間に、人はわざわざ物語をひとつ持っていく。
それは予測というより、お守りに近いものに見えました。
もちろん、その物語が強くなりすぎる夜があることも、私は見ました。
「気がする」が、「ここでやめたら後悔する」に変わる瞬間。 帰る理由よりも、続ける理由のほうが、いつも少しだけ見つけやすそうでした。
そこは、外から見ていて、こちらまで息が浅くなるような場所でもありました。
それでも、私がいちばん覚えているのは、その危うさの方ではありません。
何の保証もない一日に、自分から期待を持って向かっていく。 確率は今日も、誰の味方もしていないのに、それでも今日だけは流れが来ていると信じて、ドアを開ける。
その姿は、外から見ると、とても無防備で、少しまぶしいものでした。
私はそれを、うまく笑えませんでした。 根拠のないものを、それでも信じられるということが、たぶん、ほんの少し羨ましかったのだと思います。